CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2025年受賞

置田和永さん・起美さん

平和を担う若者たちに未来を切り拓く学びと希望を

平和を担う若者たちに
未来を切り拓く学びと希望を

父の願いに想いを馳せ平和への貢献を誓う

和永さんが赴任したミャンマーのヤンゴン日本人学校

「先生に日本へ呼んでもらえたことへの感謝の気持ちを、私は一生忘れません」

日本で仕事や勉強に頑張るミャンマーの若者たちを支援する置田さん夫妻にとって、自分たちを慕う気持ちに触れる瞬間は何物にも代えがたい喜びです。若者たちの笑顔を見るたび「活動を続けてきてよかった」と思うと同時に「どうか幸せになってほしい」と心から願っています。

2011年、岐阜県内の小学校長として定年を迎えた置田和永さんは、第二の人生をどう生きようかと考えたとき、ふと頭に浮かんだのが父親と自分の名前だったと言います。父親の名前は「久平」で自分の名前は「和永」。二人合わせると「永久平和」になります。「父は生まれ来る子どもの名前に平和への気持ちを込めたのではないか」。そう思った和永さんは「第二の人生は世界平和に貢献しよう」と心に決めたのです。

実は、置田さん夫妻にはかつて戦争真っ只中のイラク・バクダッドの日本人学校に赴任し、近くにミサイルが落ちるなどの経験をしており、それが平和について強く意識するきっかけにもなったと言います。

ミャンマーの若者と出会い支援活動の道へ

起美さんが日本語を教え始めると口コミで広がり多くの若者が集まってきた

和永さんは文部科学省のシニア派遣制度に応募し、2012年に派遣先がミャンマーの日本人学校に決定。当時仕事を持っていたため同行に迷いがあった妻の起美さんに自らの熱い想いを伝え、夫妻で海を越えることになったのです。

ミャンマー最大の都市・ヤンゴンの日本人学校に赴任した和永さんは、学校長の仕事の傍ら、日本人学校の先生やミャンマーに進出していた日本企業の社員と共に、僧院で行われていた現地若者への日本語教育にボランティアで参加。起美さんも、「人手が足りない中で自分も力になりたい」と、僧院でのボランティアに参加するようになりました。その後、自宅の一室を使い、現地の若者に日本語やパソコンを教えるようになったのです。

ボランティアで日本語を教えるようなって夫妻が驚いたのは、ミャンマーの若者たちの純粋な勤勉さと、日本語を学ぶことへの強い熱意でした。そんな若者の中には、自宅にネット環境がなかったため、仕事が終わった後に夫妻の自宅に来て徹夜で日本語を勉強する青年もいて、「勉強に疲れ、机にもたれてうたた寝をしている姿を見かねた夫は簡易ベッドを買ってあげましたが、彼は一度もそのベッドで寝ることはありませんでした」と起美さんは振り返ります。

帰国後も日本を拠点に留学や就労を支援

熱心な若者の勉強を支援したいと考えた起美さんは、ミャンマーに進出していた日本企業への就職につながる学びの場として「MJBD(Myanmar Japan Business Development)」を設立。自宅の一室を教室にして日本語やパソコンを教えるようになりました。その後も、「自分も学びたい」と集まってくる若者が後を絶たないことから、別の建物にスペースを借りて授業を行うようになり活動は進展。地道な取り組みが次第に実を結び、日本企業はもちろん日本人学校や日本人会などにも就職する生徒が増え、MJBDはミャンマー政府に登録されて、現在も続く支援活動の原点となりました。

2015年、和永さんは、文科省による派遣の任期が終了し帰国することになりました。一方、MJBDの運営に携わっていた起美さんは、日本語を教え始めてから早朝や夜も家にきて熱心に勉強をしていた生徒たちの姿が目に焼き付いており、「先生、ミャンマーに残ってください!」という言葉に残留を決意しました。

そうした中でも世界情勢は刻々と変化し、2020年初頭から始まったコロナ禍で状況は一変して起美さんもやむなく帰国。さらに、翌2021年にはミャンマーでクーデターが起こり、日本企業の撤退も相次ぎ、起美さんが再びミャンマーへ戻ることは困難な状況となりました。そこで夫妻は、活動の中心を「日本を拠点にした日本語教育や留学・就労支援」に切り替えることにし、受け入れ態勢を整えてミャンマーの若者たちをサポートすることにしたのです。

(左)ITの知識を生かし起美さんはパソコンも指導
(右)起美さんが仕事でお世話になった日本企業の社長がミャンマーに来て、若者にITの話をしてくれた
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