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受賞者一覧

2023年受賞

三登 浩成さん

被爆者から伝えたい!被爆の実相を世界の人々に

被爆者から伝えたい!
原爆の実相を世界の人々に

家族それぞれ被爆者となった80年前の夏

「これまでも、これからも、私がここで続けるのは『事実』を伝えること、そして対話を通してあらゆる質問に答えること。ただそれだけです」

広島に投下された原爆の惨禍を今に伝える原爆ドームの前で、17年以上にわたり国内外から訪れる人々にその実相を伝え続ける三登浩成さんは、自らの活動についてそう話します。

三登さんが原爆に関する正確な知識と長年培った英語力を生かし、原爆ドームの前でボランティアガイドを始めたのは60歳になった2006年の夏。きっかけとなったのは、広島の県立高校で英語教師をしていた50歳のとき、教職員組合の研修で平和記念公園内の碑巡りに参加して、原爆で左脚を失いながらも車いすで被爆体験を語り続けている沼田鈴子さん(2011年に87歳で死去)に出会ったことでした。

実は、三登さんの母・登美枝さんは、原爆投下から3日後に疎開先の実家から広島市内にある自宅に戻り残留放射線を浴びた「入市被爆者※」。そのとき登美枝さんは妊娠4カ月で、三登さんは「胎内被爆者」としてこの世に生を受けたのです。

一方、師範学校の教師だった父親は、原爆投下時に爆心地から3キロ離れた校舎内で被爆。祖父は爆心地近くで被爆し1カ月後に亡くなりました。1945年8月、こうして家族それぞれが異なる場所で被爆者となったのです。


※入市被爆者(にゅうしひばくしゃ):原爆投下から15日目までに爆心地から概ね2キロ圏内に入った人

(上)三登さんのガイドは「被爆者健康手帳」を見せ自分と家族の被爆体験を伝えることから始まる
(左下)高校教師時代の三登さん。授業のほか英語の例文集なども出版し高い評価を得ていた
(右下)共通の知人がいたことから生前の沼田鈴子さんとは話す機会を多く持つことができた

高校教師を早期退職し被爆を語り継ぐガイドに

(上)二十歳のとき母親から初めて渡された「被爆者健康手帳」
(下)原爆で左足を失いながらも被爆体験を語り続けた沼田鈴子さん

終戦後、被爆地である広島で育った三登さんでしたが、子どものころから父も母も原爆に関して自らの体験を語ることはありませんでした。このため、自分が被爆者だと認識したのは、母親から「被爆者健康手帳」を渡された二十歳のときだそうです。

そんな三登さんは、研修の碑巡りで沼田鈴子さんの被爆体験を聞くうち、「自分も被爆者のひとりであるのに、原爆についてあまりにも知らないことが多い」とショックを受けました。そして、当時70歳を超えていた沼田さんの「私は年をとり、そう長くはガイドを続けることはできない。誰か若い被爆者が語り継いでくれたら」という言葉に大きく心を動かされ、教師として一区切りをつけたら自分が跡を継ごうと決めたのです。

その後、58歳で高校を早期退職した三登さんは、原爆に関する勉強を本格化。「1つアウトプットするには100のインプットが必要」と、原爆の実相を伝えるため手に入る資料や書籍にはすべて目を通し、原爆に関する知識を深めていきました。

同時に、「ガイドをするなら全員が被爆者である自らの家族に起きた体験を伝えたい」との想いから、母親に手記の執筆を依頼。被爆者とって悲惨な体験を思い出すことはこの上なく辛いことでしたが、原爆の実相を伝えるため根気強く説得し、書き始めるまでに半年、さらに執筆に半年かけ、母の登美枝さんは「あのような悲劇が二度と起こらないことを切望すればこそ」との想いで、手記を書き上げてくれました。

(左)原爆に関する蔵書は数百冊におよび現在も増え続けている
(右)新たな資料があれば内容を精査し常に情報を更新する

17年以上にわたりほぼ毎日原爆ドームに

こうして原爆の実相を伝えようと、平和記念資料館のガイドになった三登さんでしたが、交代制で週に1度しかできないため、フリーの立場で原爆ドームの前でボランティアガイドを始めることにしました。

以来、17年以上にわたり、雨の日以外はほぼ毎日、自宅から自転車で40分かけ原爆ドームまで通い、朝10時からガイドをスタート。「まず、自分が何者であるかを伝えることが大切」と、日英2カ国語で「胎内被爆者・IN-UTERO SURVIVOR」と書かれたカードを首から下げ、被爆者として最高齢である母親の話を書いたパネルやさまざまな資料を並べ、興味を示した人には「被爆者健康手帳」を見せて、原爆の実相を伝え続けています。

三登さんがガイドとして貫いているモットーは、「事実を正確に、わかりやすく、心に響くように」伝えること。このため、原爆について正確にまとめた自作のファイルを用意し、「なぜ投下する都市が広島になったのか」「どのように投下され、どこで爆発したのか」「爆発後に広島で何が起きたのか」「放射線はいつなくなったのか」「75年草木が生えないといわれた広島が素早く復旧できたのはなぜか」など、海外から訪れた人々には英語を駆使し、原爆の「事実」を伝えます。

また、相手に時間のある場合には、爆心地の隣にあるお寺に案内し、熱線で表面がザラザラになった墓石に触れ、原爆の威力を体感してもらうことも実施。説明をするなかで相手が疑問を持ったことに対しては納得できるまで対話をし、ときには議論を通して質問に答えていきます。

(左上)原爆の実相を伝えるため自作したファイル
(右上)1~2時間かけじっくり資料を読む外国人も多い
(左下)原爆の熱線でザラザラになった墓石も体感してもらう
(右下)ほぼ毎日自転車に資料を積み40分かけてドームに通う
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