CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2021年度受賞

飯田 和幸さん

少年たちに伝え続けた決して諦めずやり遂げる心

少年たちに伝え続けた
決して諦めず
やり遂げる心

1年の約束で引き受けた少年院での絵画指導

30年以上にわたり少年院で院生に絵画を教えてきた北海道帯広市の画家、飯田和幸さんは、最後の授業となった2021年8月末、普段通り少年たちに言葉をかけながら絵を見て回り、普段通りに授業を終えた。すると、私語が禁止された教室にもかかわらず、一人の院生が手を挙げ「先生、どうすればイラストレーターになれるでしょうか」と尋ねてきた。「まず諦めないでコツコツやることだね。そうすればきっと道は開けるよ」。そう答える、飯田さんの胸には迫るものがあった。「何でもいい、夢中になれるものを見つけてほしい」。30年以上語りかけた想いが目の前の院生から伝わってきたからだ。

飯田さんが帯広少年院で絵を教え始めたのは、40代だった1980年代半ば。自ら創作に打ち込む一方、市内で絵画教室を開いていた飯田さんのもとに、帯広少年院から院生の更生と社会復帰を支えるボランティア「篤志面接(とくしめんせつ)委員」として、絵を教えてほしいという依頼があったのだ。当時忙しかったこともあり、はじめは辞退した飯田さんだったが、何度も足を運ばれるうち、1年間だけという約束で引き受けることにした。

飯田さんが教えていた帯広少年院。2022年4月1日をもって閉庁した

少年たちに会える日がいつしか自身の楽しみに

少年院の一画に飾られた院生の作品

迎えた最初の授業の日、院生を前にした飯田さんは、彼らにかつての自分と重なるものを感じたという。小学生の時に両親が離婚し、貧しさや親の愛情を感じられない寂しさから次第に心が荒れ、すさんだ日々を過ごした飯田さんには、少年たちがそれぞれ背負っている経験の重さが伝わってきたのだ。ただ、そうしたなかでも自分が道を踏み外さなかったのは、絵が好きで中学時代は美術教師になりたいという夢を持っていたからだ。振り返れば、大好きな絵があったことで、諦めずにこれまでの人生を切り開いてこられたことが、改めて思い起こされた。

飯田さんは、そのことを少年たちに伝えたいと思った。月に2回ある授業では、絵の具の使い方や絵を描く方法は教えたが、何を描くかは彼らの自由で、上手い下手は問わない。伝えたかったのは、「何か一つでも夢中になれることがあれば、人生を諦めないようになる。それは絵でもいいし、文章でも、音楽でも、何でもいい。諦めないで続けていれば、いつかきっと道は開ける」ということだった。

そんな想いで一人一人の生徒と向かい合い、私語が禁止された教室で飯田さんの言葉に少年たちが頷いたり、目や表情で分かり合えたりする瞬間は、かけがえのない喜びとなった。月に2回の授業は飯田さん自身の楽しみとなり、「明け方近い3時、4時まで仕事をした日でも、授業に行くのはまったく苦になりませんでした」と言うほど。こうして、1年のつもりで始めた絵の指導は飯田さんのライフワークのようになっていった。

月2回の授業では、絵の技術以上に何事も諦めずにやり遂げることの大切さを教えた

映画看板絵師になるもテレビの普及で仕事が減り
斜陽で心がすさんだ若き日

思えば、院生たちと同じ年代のころ、飯田さんは貧しさから高校進学を断念。そのとき、「絵を描く仕事がしたい」という飯田さんのため、中学校の校長先生が十勝の映画館を一館一館訪ねて回り、やっとの思いで映画看板絵師の仕事を見つけてくれた。そこでは、3~4年は絵を描かせてもらえず絵の具作りばかりだったが、ひたすら先輩の仕事を見て描き方を覚え、時間があればデザインや彫刻、陶芸なども勉強した。結婚したのもこのころで、「それを励みにさらに頑張るようになり、次第に何十メートルもある映画看板を任されるようになりました」という。

しかし、テレビが普及してくると映画業界は急速に斜陽となり、仕事は目に見えて減って、給与の支払いもままならない状況になった。収入がほとんどなくなり、心がすさむような生活になってしまったという飯田さん。そんなとき、中学校の美術教師だった恩師との再会が、飯田さんが新たな道を切り開くきっかけとなった。

飯田さんの絵の道の足がかりとなった映画看板の仕事
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