CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2020年度受賞

村岡 真治さん

節目の年にはコンサートなどのイベントを開催し、クラブの活動や保護者の想いも伝えてきた

行政を動かした保護者と一丸となった常設への熱意

職員となった村岡さんは、子どもたちと向き合いながら、一方では行政との交渉にも奔走。その甲斐あって補助金の増額が決まり、1991年に念願の「職員三人体制」を実現。名称も、放課後、夕焼けに照らされながら遊ぶ子どもたちをイメージし、現在の「ゆうやけ子どもクラブ(以下、「ゆうやけ」)」に改称した。

1992年からは常設の施設確保に向けた運動を加速し、請願や署名活動のほか、行政や市民にアピールするためのコンサートを企画。これが保護者の絶大な協力もあって都立小平養護学校(現 小平特別支援学校)の体育館に700人もが詰めかけ、市長も来賓する盛大なコンサートとなり、クラブの歩みや保護者の想いを伝えることができた。村岡さんはそのときの様子を、「半年ほどかけて準備したコンサートは、会場が熱気で息苦しいくらいで、社会が動いた瞬間を目の当たりにする想いでした」と振り返る。

こうして1994年、陳情が採択され、1997年から悲願の常設の施設を開所。「毎日子どもたちが通って来られる場所ができたことは、ものすごく大きな前進でした」と話す。

子どもと肌で触れ合いながら、心のなかの声にも耳を澄ます

たくさんの出会いと成長する姿に支えられ

40年以上活動を続けてこられた原動力は、「子どもたちとのたくさんの出会いと、成長のよろこびがあったから」と話す村岡さん。

そんなよろこびの一つが、ある男の子との思い出だ。小学校から通っていた男の子が、高校生になり自分の気持ちが上手く伝えらないことにイライラし、身近な人にあたるようになった。気持ちを支える物が必要ではないか、そう考えた村岡さんは、その子が好きだった「ルパン三世」を真似て段ボールでピストルを2つ作り、高校の3年間二人でバキューン、バキューンとピストルごっこをして遊んだのである。そうするうち、その子の気持ちが外に向き、態度も落ち着いていったそうだ。やがて迎えた会を卒業する日、本人は明日からここに来ないことを理解していないようで、いつものようにピストルを持って帰るだろうと思っていたところ、玄関を出たその子の下駄箱の前にポツンとピストルが置いてあったのである。

「あんなに手放さなかったピストルから見事に卒業し、ゆうやけから巣立っていってくれた」と、村岡さんはうれし涙を抑えることができなかったという。

(左)40年以上にわたって障害のある子どもたちの成長に寄り添ってきた村岡さん。一人ひとりを見つめるまなざしはどこまでも温かい
(右)常に全力で子どもたちと向き合う村岡さん。だからこそ小さな成長にも気づきやりがいとなる

次の世代のため安心して働ける環境に

春休みなど、時間にゆとりがあるときに出かける公園遊びは、子どもたちの楽しみの一つ

子どもたちの数え切れない笑顔や涙を見つめてきた「ゆうやけ子どもクラブ」。保護者からも、「子どもの成長の節目にはいつも、ゆうやけと村岡さんがいてくださいました」「ゆうやけに通わせていただいたときのことを思い出しては、何度も何度も感謝しています」といった声が絶えない。

常設の施設となり、利用する子どもたちも増えたことから、2001年にはゆうやけ第2子どもクラブ、2013年にゆうやけ第3子どもクラブを開設。学校の長期休暇にも対応してますます大きな役割を担っている。スタッフも3カ所合わせて常勤8名、非常勤30名体制で運営し、子どもたちの様子に変化があれば互いに伝え合って見守りながら、皆で一人ひとりの成長に寄り添っている。

自閉症や知的障害のある子どもたちの学童保育の先駆者として、実践を貫いてきた村岡さん。今後に向けては、「職員がもっと子どもたちと向き合い、実践することに心が傾けられるよう、体制を整えていきたい。そして、次の世代に安心してバトンタッチできるクラブにしていきたい」と願いを込める。

次の世代に安心して引き継げるよう働く環境や体制づくりにも尽力
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