CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2014年度受賞

原田 燎太郎さん

「尊敬と信頼が生まれるとき人と人はつながれる」

「尊敬と信頼が生まれるとき
人と人はつながれる」

快復者との出会いと恩返しの思いが、10年に及ぶ活動の原点

原田燎太郎さんは大学3年のとき、中国のハンセン病元患者が住む「快復村」で、水道やトイレの整備などを行いながら元患者である「快復者」と交流するワークキャンプに参加し、一人の老人と運命的な出会いをした。

快復者の名前は、蘇振権(ソウチンクワン)さん。歩けないほど重いハンセン病の後遺症がありながら、過去の辛い話も曲がってしまった手足の指のことも、笑みをたたえながら原田さんにすべてを話してくれた。子どものころいじめられっ子で、人の目ばかり気にしていた原田さんは、蘇さんの姿に自分の小ささを思い知らされた。

それを大きな契機に原田さんは、自分たちを精いっぱいもてなし、人間として大切なことをたくさん教えてくれる快復者たちのため、10年にわたり無心で支援活動に取り組んできた。

「10年続けてこられたのは、ありのままの自分をさらけ出し、僕を受け止めてくれた蘇さんや、快復村の人たちへの恩返しの思いが原点にあります。そんな気持ちで走り続けるなかで、心から信頼できる仲間も増えました」。そしていま、活動はさらに広がりをみせている。

原田さんが人としての生き方の多くを学び、人生の師と仰ぐ蘇振権さん

「自分のなかに人を差別する心はないか」それを確かめるため

1960年代に建てられた家屋。修理されることなく元患者が住んでいる

原田燎太郎さんが、初めて中国のハンセン病快復村でワークキャンプに参加したのは2002年、大学3年生のとき。それは、新聞記者を目指していた原田さんにとって、「自分のなかに人を差別する心はないか」それを確かめるための参加でもあった。

まだ有効な治療法がなく体に変形を起こすこともあったハンセン病患者に対し、中国政府は1957年に隔離政策を打ち出し、人里離れた「隔離村」800カ所に集めた。1986年に隔離政策が撤廃された後も、元患者の多くは差別を恐れたり帰る場所がなかったりして村にとどまり、今も約600カ所で約2万人が過酷な生活を強いられている。

帰国後、新聞記者を目指して就職活動を行うがなかなかうまくいかず、自分の進むべき道に思い悩んでいた原田さんは、友人の誘いもあって再びワークキャンプに参加するため中国を訪れた。そこは、広東省の広州市からクルマで7時間かかり、隔離を象徴するような長いトンネルを抜けた先にあるリンホウ(嶺后)村。原田さんはこの村で、自分の進むべき道を決める大きなきっかけとなった、蘇振権(ソウチンクワン)さんと出会った。

快復村にはインフラが整備されていないところも多く、ワークキャンプでは水道やトイレなどを設置する

人生の師と仰ぐ快復者と出会い無心で走りはじめる

リンホウ村でのある夕暮れ。村の道を歩いていた原田さんは、家の前でお酒を飲む蘇さんに出会い、誘われるまま盃を酌み交わした。

筆談で「あんたはハンセン病病人を怖がらないのか。感激だ」という蘇さんに、原田さんが「あなたは病人ではありません。快復者です」と答えると、蘇さんはうれしそうに天を仰いで笑った。

「いじめられっ子だった僕は、人の目ばかり気にして、自分をさらけ出すことができませんでした。それなのに蘇さんは、昔の辛いことや曲がった指のことも笑みをたたえながら全部話されるんです。その姿を見たとき、自分はなんてちっぽけなんだろうと思いました」

蘇さんは、不自由な体で竹かごを編んだり、料理を作って原田さんたちをもてなしてくれた。「こんなにも自分たちによくしてくれて、大切なことを教えてくれる人たちが実家に帰ることができないのは、どうしても理解できなかったんです」

原田さんはワークキャンプが中国の学生で組織できるようになり、彼らが快復村に来る流れができれば、やがて家族も来てくれるのではないかと考えた。

(上)蘇振権さんから原田さんへの筆談
「あんたはハンセン病病人を怖がらないのか。感激だ」
(下)原田さんから蘇振権さんへの筆談
「あなたは病人ではありません。快復者です」
不自由な手でお茶を入れてくれる蘇振権さん
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