CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2012年度受賞

渡辺 玉枝さん

頑張った以上の感動を見せてくれる大自然と山に魅せられて

頑張った以上の感動を
見せてくれる
大自然と山に魅せられて

エベレスト登頂 世界記録の裏にある山への熱き思い

2012年5月12日、チベット側のルートから6300mのアドバンス・ベース・キャンプに入った渡辺さんは、5月15日には7300m地点に到達。18日に8300mのアタックキャンプに入り、あとは頂上を目指すだけとなった。下山の時間を計算して出発は夜の9時。真っ暗ななか8848mの頂上に向けアタックを開始した。パートナーは、日本有数の山岳カメラマン・村口徳行さん。

登り始めた渡辺さんの足が突然上がらなくなる。「これはいけない!」。原因は、酸素ボンベの酸素切れだ。脳に酸素が届かなければ体はすぐに反応する。すぐにボンベを取り換え、事なきを得る。ヘッドランプの明かりの先には、志なかばで力尽きた登山家たちの遺体を何度か目にした。世界最高峰への挑戦はそれほど過酷なのだ。

アタック開始から10時間後の午前7時、徐々に近付いていた頂上がついに目の前に。

「10年前と同じだ。まずそれを確認しました」。73歳の渡辺さんが、自身で樹立した女性のエベレスト登頂世界最高齢記録を更新した瞬間だ。眼前には、地球上で一番高い所からしか見ることのできない絶景が広がっていた。

中学で20キロのマキを背負い片道6kmを自転車で通った高校時代

定時制高校卒業後に短大へ進学(左端・渡辺さん)

渡辺さんが生まれ育ったのは、現在の山梨県南都留郡富士河口湖町。

「小さいころは家の前を用水路が流れていて、そこで顔を洗って目を上げると、いつも富士山と向き合えました」。そう話す渡辺さんの家は農家で、子供のときから畑仕事を手伝い、夏は羊やヤギの餌になる草を刈り、冬には山に入ってマキ拾いをした。中学生のころには、20kg以上もあるマキを背負って毎日運んだという。「それが、山登りに役立ったんでしょうね」渡辺さんはそう振り返る。

中学卒業を前に父親が病に倒れ、進学を断念。1年間、家の仕事をやってみて、定時制の高校なら通えそうだと母親を説得した。夕方までめいっぱい畑仕事をして走って家に帰り、片道6kmの道のりを自転車で通った4年間。「思えば、小学校から高校まで皆勤賞でした」

定時制高校の卒業式で総代を務め、新聞に取り上げられたことから、渡辺さんは授業料免除で都留短期大学(現都留文科大学)に入学することになった。

短大卒業後、民間企業の勤務を経て神奈川県の公務員試験に合格。新たな人生がスタートした。

両親を助けて畑仕事を手伝っていたころ(左端・渡辺さん)

山の感動に心を奪われた雪の谷川岳の絶景

神奈川県の職員となった渡辺さんは、1965年、県庁の山岳会が募った上高地のハイキングに参加し、そこで山に魅せられることになる。「北アルプスの蝶ヶ岳という山まで足を伸ばし、そこから見た槍ヶ岳と穂高岳が本当に素晴らしかったのです」。そのとき疲労も少なく、楽しく先導してくれたリーダーの山登りを見て、山を知っている人にきちんと教えてもらいたいと、66年1月、県庁の山岳会に入会した。

「山岳会に入ったからには、雪山に」と、翌月には冬の谷川岳に挑戦した。これが想像をこえて素晴らしく、胸元まで埋もれてしまう深い雪を踏み進んだ先に、こんな世界があるのかという絶景が待っていた。雪の谷川岳に渡辺さんは完全に心を奪われてしまった。

こうして始まった渡辺さんの山登り。当時は、土曜日が半日勤務だったので、少し遠い山に登るときは、往復とも夜行列車に乗り込み、月曜日の朝にザックを背負って職場に出勤することもあった。職場には迷惑をかけないよう、仕事は堅実につとめ、国内で登山歴を積み重ねていった。

(写真左)銀世界に包まれた冬の谷川岳(写真右)冬山に魅せられた、谷川岳登山(右が渡辺さん)
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