CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2008年度受賞

伊藤 和也さん

爆撃・銃声音が響く
アフガニスタンで
食料に困らないための、
緑豊かな国づくりを

インタビュー構成・年譜作成/清丸恵三郎

伊藤和也さん「31年の軌跡」

  • 1967.11.19
  • 静岡県掛川市で、伊藤正之・順子夫妻の長男として生まれる。妹・弟思いの、やさしい「お兄ちゃん」に成長する。
  • 1988.4.30
  • カブスカウトからボーイスカウトに入団。宣誓を行う。
  • 1991.2.16
  • 掛川市立東中学校平成二年立志式で、「将来農業関係に仕事をしたい」と宣言し、そのため農業高校に進むことを明らかにする。「関心を持ったことはとことんやってみたい、やらなければ気がすまない」と自らの性格を後に書きしるしている。
  • 1992.4
  • 静岡県立磐田農業高校入学。
  • 1995.4
  • 静岡県立農林短期大学園芸科入学。
  • 1997.3
  • 静岡県立農林短期大学園芸科卒業。
  • 1997.10
  • 庭木作物に関して農業研修を受けるため、アメリカ・カリフォルニア州に赴く。
  • 1998.11
  • 帰国し、ホーチアグリコ、(株)ソシオで働く。
  • 2001.9.11
  • アメリカにおいて同時多発テロ起きる。米軍の報復爆撃をきっかけにアフガニスタンという国に関心を抱く。アフガニスタン復興の手助けをする国際NGOカレーズの会に加入、活動に参加。
  • 2003.6
  • ペシャワール会を知り、考え方や活動に共感し事務局を訪れる。「アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すお手伝いをしたい」「子どもたちが食べ物に困らないよう力になりたい」と考えていた。
  • 2003.6.15
  • ペシャワール会へ現地ワーカーになるための希望動機を書く。「現地に行かなければ、何も始まらない」との強い思いを、この時期抱いていた。
  • 2003.12
  • 家族に「アフガニスタンに行って来る」とのみ告げ、2週間後に旅立つ。パキスタンのイスラマバードまで空路、そこから陸路カイバル峠越えでアフガニスタンへ入国。ペシャワール会の「緑の大地計画」に参加、クナール川灌漑用水路建設に従事。この時期、突貫工事に入っており、「これまでで一番辛かったが、一番の楽しい思い出だ」と後に友人に述懐している。度々、アミーバー赤痢にかかり、寝込む。卵入りインスタントラーメンが最高のご馳走だった。
  • 2004.春
  • 多くの日本人スタッフが一時帰国。1人で現場を任され、現地の「パシュトー語」に習熟する。
  • 2004.9
  • プディアライの実験農場に移り、本来の仕事である農業支援に携わる。日本から野菜の種を持ち込んでおり、小麦、とうもろこし、サツマイモ、かぼちゃ、菜の花、ブドウなどの栽培に従事。その後、稲作にも取り組む。料理が上手で、様々に工夫して日本人スタッフに喜ばれた。シャイだが話好きで、自慢は故郷の掛川と弟妹のことだった。
  • 2004.9.12
  • 初めての一時帰国。ただし「これから先も、何年もここ(アフガニスタン)で活動を続けていく」ことを周囲に明らかにしていた。
  • 2005.秋
  • 近隣の農民たちと親しくなり、写真好きだったこともあり、子どもたちからは「イトー、アクスウバセ(伊藤、写真撮って)」と声をかけられるまでになる。アフガンの村に溶け込み始めていた。ただし実験農場での栽培は苦闘が続く。
  • 2007.秋
  • ようやくブドウが収穫可能に。サツマイモの種芋も現地で採取できるようになった。「頑固とも言えるほど、ひたむきで誠実に働く」(中村哲ペシャワール会現地代表)成果が少しずつ目を出し始めていた。現地の農民アキル・シャー一族とは家族のような付き合いだった。モスクの建設費を寄進し、牛を買い、農地を手に入れている。アフガンで永住する準備をしていたともとれなくはない。知人に「結婚するなら、こちらでかな」と漏らしていた。
  • 2008.8.26
  • 4人の現地人により誘拐され、殺害。享年31歳。犯人のうち逮捕された1人はパキスタンの難民キャンプ出身者だが、背後関係は不明である。プディアライやダラエヌール近在の農民の多くが、彼の死を心から悼んだ。「伊藤は寡黙で山のようだ」と現地の農民たちに信頼されていたが、その言葉のように伊藤和也さんの魂はアフガンの地に生き続けている。
  • 2008.11
  • 両親らにより伊藤和也アフガン菜の花基金設立。
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