夕方5時過ぎ、東京の典型的な荒川区東尾久2丁目にある区立第九中学校には、クラブ活動を終えて帰宅する生徒たちと入れ替わるように、夜間学級生が次々と登校してくる。現在、在籍者は47名。年齢も、国籍も、実に様々。最高齢は78歳。1時間以上かけて通ってくる生徒もいる。過去、ここから巣立ち大学に学び、教師になった人もいる。
1956年に発足した当時は、就学適齢期でありながら経済事情から働くことを余儀なくされた子どもが多く、それに戦後の混乱期で中学校へ進めなかった成人、年配者が加わっていた。しかし幾多の変遷を経て、90年代以降、親が日本で働いている中国はじめ、ベトナム、フィリピンなど、外国の子どもが多数を占めるようになってきた。
西谷さんが寄付を始めた初期から70年代までは貧しさが基本にあり、山田洋次監督がこの学級をモデルに、映画「学校」で取り上げた世界そのものだった。
しかし、いまや問題はより複雑だ。
夜間学級を担当する佐藤栄一郎副校長はこう語る。
「最近の学級は日本語だけで対応できなくなっている。ただここで学ぶ生徒のほとんどがこれからも日本に住み、生活するという前提で来ているわけで、であれば何とか日本語に習熟してもらうしかない。そのために先生方も懸命に努力されています」
本来は3クラス編成だが、言葉の問題等があり5クラス編成とし、常勤教員11名、ほかに講師等8名で対応している。
夜間学級で教えるのは荒川九中で2校目という村井達生教諭は話を引き継ぐように、「ときにはわれわれも現実の重さにめげそうになるのですが、そんな時に50何年間、この学級を応援してくれている西谷さんのことを思い浮かべると、頑張らなきゃと思うんです。ほかの夜間学級にはないことで、勇気をもらっています」と感謝の言葉を述べる。
荒川九中では、西谷さんの寄付を内々に「西谷基金」と呼び、卒業生に贈る記念品代として用いたり、修学旅行の費用が出せない生徒の為の貸与資金にしたりしている。
「日本語は余り通じず、日本的感情が理解できない生徒も多いんですが、ある年齢に達し、生活することの大変さを知っている生徒は、西谷さんの行為の重さを理解しているように思います」。二人の教師はそう言葉を締めくくった。
5時45分、今日もいつものように授業が始まる。楽しく、面白く、しかし時にはしんどいが、生徒たちにとり何にも変えがたい時間だ。