CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2007年度受賞

西谷 勲さん

50年以上、毎月送り続けた寄付金と激励の手紙

50年以上、毎月送り続けた
寄付金と激励の手紙

取材・文:清丸恵三郎

「私が子どもたちを応援しているのではなく、子どもたちが実は私を応援してくれている」

西谷勲さんは、68歳の今も現役。中間市から、隣接する北九州市内にある会社に毎日出勤している。

高校を卒業した60年、八幡製鐵(10年後、合併して新日本製鐵)に入社、コークス炉周りの工場で働き、入社27年目に関連会社の山崎産業に出向、ここではコークス炉の蓋関連の仕事に携わる。定年を迎えた60歳からは、若松区内の「地場産業」と自ら語る、新日鉄に部品を納める津山興産で嘱託として働く。ここでもコークス炉関連の技術営業を担当している。

「会社が好きなんです。それにもういい歳なので、集中力が持続するのは午前中だけ。だから会社は休みだが、土日も出社して仕事をしているんです」

実直で勤勉、高度成長期を担った典型的な日本人の一人である。

その西谷さんには、実はもう一つの顔がある。もっともその顔は、西谷さんの「実直・勤勉」と背反するものでは全くない。形影相添うと言った方が当たっているだろう。

新聞の投書欄をきっかけに始めた、夜間学級への寄付

1957年9月のことだ。16歳の西谷さんは何気なく新聞の投書欄を読んでいて、ある記事に目が吸い寄せられた。「これまで何回か中学校の夜間学級へ金銭的援助をしてきたのだが、家庭の都合でできなくなった。どなたか引き継いで下さる方はいませんか」。ある女子高生の訴えだった。西谷さんは中学に夜間学級があることをそのとき初めて知った。経済的に困っているんだろうなと、自らのことを念頭に置きながら想像した。

西谷さんは幼児期に父親が戦死、母親の富貴江さんが若松港で石炭を船に積み込む仲士(ごんぞう)をしながら女手一つで兄と西谷さんを育ててくれた。翌年、全日制に編入するが、それまでは自身が定時制高校生だった。家計を助けるために牛乳配達などもしていた。

「中学校にさえ満足に行けない子どもたちに、少しでも応援になれば。自分ができるところまで引き継いでやってみよう」。決心すると、アルバイト代などからまず300円を夜間学級のある東京の荒川第九中学校に送った。かけそばが30円ほどの時代。貴重な現金である。当初、手紙には名前は書かず、時候の挨拶と生徒たちへの励ましだけ記した。母親にも黙っていた。その行為が50年を越え、今に至るも続くことになろうとは、自身想像だにしなかった。

生徒からの手紙や寄せ書きは今でも宝物

中学校との交流、そして夫婦二人三脚での仕送り

3年生になり、挨拶文に修学旅行で東京に行くと何気なく書いたところ、どうして調べたのか荒川九中の先生が上野の旅館に訪ねてきた。塚原雄太教諭だった。それを契機に、後任の見城慶和教諭など荒川九中夜間学級の先生や子どもたちとの手紙の遣り取り、交友は頻繁なものになっていく。

高校卒業後、西谷さんは八幡製鐵に就職、やがて幼馴染の好枝さんと結婚する。しかし荒川九中への仕送りは内緒だった。ところが結婚の翌67年、夜間学級開設10周年の式典に夫婦して招かれ、初めて好枝さんは夫の行ないを知ることになる。

「製鉄会社に勤めており、それなりに収入も安定していたので、500円、1000円と送る金額は増やしていったが、家計に負担になるようなことはなかった。子どもも息子1人でしたし」と、西谷さん。しかし以降は、事実上、好枝さんとの二人三脚による仕送りだったと言っていいだろう。小額とはいえ、毎月送り続けることは並大抵のことではない。

荒川九中を訪問した西谷さん夫妻
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