CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2005年度受賞

日本スピンドル製造株式会社 社員一同

新聞各紙でも大きく報道された

第二陣が現場に到着。必死の救出活動が続く

環境システム事業部集塵グループの蚊野敏之(41歳)ら第二陣が現場に着いたのは、一陣が救出に必死に取り組んでいた時である。蚊野は一陣が現場から救出した人や自力で脱出してきた人たちを西側道路へ介助しつつ誘導する一方、駐車場のフレームと車両のフレームに挟まれた人たちの救出に当たった。2つの金属フレームは折れ曲がり、切断の道具がないと救出が進まない。工場からカッターが取り寄せられたが、今度は大破した乗用車からガソリンが漏れているのが見つかった。引火すれば二次災害を誘発する。すぐに社内にあるだけの消火器が運び込まれた。

日本スピンドル製造(株)記録誌「あの時、私達は…」

かけ続けた「頑張って」の声

救出活動は、チームワークが身上のメーカーらしく整然と行われた。重傷者は電車の座席シートなどで運び出され、医務室スタッフや女性社員の手で消毒や止血、給水など緊急措置を施された。彼女たちは重傷者が力尽きないように、「頑張って」と必死に声をかけ続けた。軽傷者は車で近くの救急病院に、重傷者は救急医のトリアージに従いトラックの荷台などに横たえ、パトカーの先導で総合病院へと送り込まれた。周辺道路が大渋滞していたので工場内を迂回路として開放、救助隊の車両駐車場としても提供した。

1時間ほどのち、誰もが慣れない救出活動に疲労困憊したころ、レスキュー隊などが次々と駆けつけてきた。11時15分過ぎ、これ以上民間企業社員がやるには限界があると中野らは判断し、一部の支援人数を残して多くの社員は撤収した。こうして日本スピンドル社員の余りにも長く、そして重い数時間は終わった。

工場内も救助のため開放された

JR西日本福知山線脱線事故とは

05年4月25日午前9時19分ごろ、JR福知山線の塚口―尼崎間のカーブ区間で、宝塚発同志社前行き上り快速電車が脱線、7両編成の電車のうち先頭2両は線路脇にあるマンションに激突し、先頭車は1階駐車場に、2両目はマンション壁面にぶつかり原型をとどめないほど大破した。後続車両も3両目は横転こそ免れたものの大破。4両目は脱線した。

事故発生と同時に、日本スピンドル製造をはじめ近隣企業の社員や住民が駆けつけ、公的機関に先駆け救助活動を開始。しかし週明けの通勤時間帯ということで、どの車両も通勤・通学客で満員。そのために現場は地獄絵図のような惨状を呈し、最終的には107名に上る死者と562名もの重軽傷者を出す、鉄道事故としては戦後4番目の大惨事となった。負傷者・遺族には、いまだに後遺症、PTSD(心的外傷後ストレス)に苦しむ人が多いという。

兵庫県警および航空・鉄道事故調査委員会の調査によれば、典型的な脱線転覆事故とされる。JR西日本経営陣の刑事責任を巡っては、10年4月23日検察審査会により強制起訴と決まり、裁判が始まることになっている。

日本スピンドル製造(株)という会社

同社は1918年に紡績用スピンドルの開発・製造からスタートし、現在はスピニング加工機や食品製造装置など産業機器、集塵機や排ガス処理装置など環境機器などを手がける。

経営理念の第一に、「公正・誠実な企業活動をとおして、永続的に成長発展することにより、社会的責任を果たします。」を掲げる。事故直後から、本社工場230人余による一致協力・連携しての救援活動を可能にしたのは、この理念とメーカーらしいシステマチックな行動が社員一人ひとりに浸透していたからだと言ってよい。

全社員に救援活動出動を命じた齊藤十内社長は、45年神奈川県生まれ。東京工大卒。大株主の住友重機械の役員などを経て、事故前年の04年に社長に就任している。「現場で多くの修羅場をくぐってきた経験が生きた」と語る。

同社へは事故後、被害者・遺族を含め多くの人たちから感謝の手紙が届けられ、様々な表彰状が贈られた。同社は事故を風化させることなく、また社員に自ら行った行為を長く誇りにしてもらうべく、05年9月末と翌年9月末、『あの時、私達は…』『その後の私達…』という記録誌を発行している。

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