
注文主はつつましく生活している人のほうが多い。堀田さんの仕事は長らくボランティアのようなものだった。初期の頃は、そうした自転車を造ってくれる人がいることを誰も知らず、一台納車するとようやく口コミで次のお客さんが来るといった具合だった。2人の息子たちはそれを見て、あとを継ごうとは言わなかったし、堀田さん夫婦も言えなかった。
人力併用電動式を導入した時は警察に運転免許が必要だといわれ、当初付けたブランド名は大手企業から商標権侵害だといわれて「ラクラックーン」と変えざるを得なかった。それやこれで何度も夫婦で止めようと話し合ったが、そのたびに続けざるをえない事件が起きた。
決定的だったのは、こんなことがあったからだ。北海道から子どもが一人飛行機で来るというので、羽田まで迎えに行った。だが何時までたっても降りてこない。騙されたかなと思っていたら、その子が脚を引きずるようにして降りてきた。「そのとき心が決まった。この子たちのために、儲からなくてもいい、身を粉にして働き、自転車を造り続けようとね」