本間錦一さんが地元で起きた痛ましい水難事故をきっかけに、仲間と「村上潜水クラブ」を結成したのは1956年。それまで培ってきた自身の潜水技術や知識を仲間に教え込み、警察や消防隊から連絡が入ると、ダムや川、海岸の現場に急行した。
40代の始め、本間さんに悔やまれる出来事が起こる。「三面ダムの工事現場で作業員の滑落事故が起こり、遺体の引き上げを頼まれて12メートルの深さまで潜ったとき、鼓膜が破れてしまったのです。今も右の耳は聞こえません。私も未熟でした」。しかし、こうした苦い経験も教訓にして、本間さんは潜水の技術や知識をさらに深めていった。
このころから、高度経済成長とともにレジャーを楽しむ人が増え、瀬波の海岸にも多くの海水浴客が訪れるようになった。同時に水難事故も増え始め、「心配になった私は、監視員がどんな救難訓練をしているのか見に行きました。ところが驚いたことに、溺れた人を救う潜水訓練ではなく、地上での応急処置訓練ばかりしていたのです」
1974年、本間さんの危惧が現実のものとなる。「ひと夏で3人もの犠牲者が出ました。そのうちの1人は、監視員の目の前で沈んでいったのですが、潜水技術がないため、為す術もなく引き返してきたのです」