CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2014年度受賞

本間 錦一さん

「海の厳しさ優しさを愛し人命を守り続ける」

「海の厳しさ優しさを愛し
人命を守り続ける」

「痛ましい事故を二度と起こさない」と、水難救助の道を歩み始める

新潟県最北端の街、村上市の瀬波温泉海水浴場。毎年10万人以上が訪れるこの海岸で、海水浴客の安全を見守り続けて41回目の夏を迎えたライフセーバーがいる。本間錦一さん88歳。とてもその年齢とは思えない引き締まった体は、日々の鍛錬の成果でもある。

子どものころから泳ぎや潜水が得意で、「素潜りのきんちゃん」の名で知られていた本間さん。21歳のとき、地元を流れる三面川で、小学生の男児と、結婚式を間近に控えた青年団団長の痛ましい水難事故を目の当たりにし、「こんな悲しい事故を二度と起こしてはいけない」と誓い、水難救助に尽くす人生を歩み始めた。

その後、村上市のあらゆる海岸や川で潜水の技術と知識を培った本間さんは、7人の仲間と水難救助団体「村上潜水クラブ」を結成。幾度も救助活動をしながら地元に貢献し、1976年には市の要請を受けて瀬波温泉海水浴場の監視員に就任した。以来40年以上にわたり、海の安全を見守ってきた。

「ライフセーバーはチームワークが一番大事」。その言葉の通り若い隊員を育てながら、本間さんは「100歳まで現役」を目指し、今日も瀬波の海を見つめている。

40年間、海水浴客の安全を見守ってきた瀬波の海岸に立つ

レジャーブームのなか、瀬波温泉海水浴場でひと夏に3人もの犠牲が

本間錦一さんが地元で起きた痛ましい水難事故をきっかけに、仲間と「村上潜水クラブ」を結成したのは1956年。それまで培ってきた自身の潜水技術や知識を仲間に教え込み、警察や消防隊から連絡が入ると、ダムや川、海岸の現場に急行した。

40代の始め、本間さんに悔やまれる出来事が起こる。「三面ダムの工事現場で作業員の滑落事故が起こり、遺体の引き上げを頼まれて12メートルの深さまで潜ったとき、鼓膜が破れてしまったのです。今も右の耳は聞こえません。私も未熟でした」。しかし、こうした苦い経験も教訓にして、本間さんは潜水の技術や知識をさらに深めていった。

このころから、高度経済成長とともにレジャーを楽しむ人が増え、瀬波の海岸にも多くの海水浴客が訪れるようになった。同時に水難事故も増え始め、「心配になった私は、監視員がどんな救難訓練をしているのか見に行きました。ところが驚いたことに、溺れた人を救う潜水訓練ではなく、地上での応急処置訓練ばかりしていたのです」

1974年、本間さんの危惧が現実のものとなる。「ひと夏で3人もの犠牲者が出ました。そのうちの1人は、監視員の目の前で沈んでいったのですが、潜水技術がないため、為す術もなく引き返してきたのです」

仲間とともに、水難救助の表彰を受けることも度々あった

ライフセーバーに必要なのは、人命を救う「実力と実績」

1974年の夏、瀬波温泉海水浴場で3人もの海水浴客が水の犠牲となり、新聞でも報道されたことから、村上市は危機感を募らせた。そこで、「村上潜水クラブ」を結成して以来、数多くの水難救助活動を行い、地元の海も川も知り尽くし、海岸の地形や潮流にも精通している本間さんのもとを訪れ、監視員になってくれるよう頼み込んだ。

それまでの監視員が潜水訓練をしていないことに驚きと憤りを感じていた本間さんは、救助に必要な潜水用具をそろえることを条件に引き受けた。

この抜擢に、「何の資格も持たない者を監視員にした」という批判の声もあったという。しかし本間さんは、「監視員となった2年目に、25メートル沖合で溺れて沈んだ大学生を水中から引き上げ、心臓マッサージと人工呼吸で心肺停止状態から蘇生させました。それからは何も言われなくなりました。ライフセーバーに必要なのは、潜水技術を基本とした、人命を救う『実力と実績』なのです」と話す。

こうして本間さんは、水難救助隊長として地元の海の安全に欠かせない存在となったのである。

愛用の自転車で海岸をパトロール
監視中は、すぐに海に飛び込めるよう、水中眼鏡と足ヒレを手放さない
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