CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2007年度受賞

谷垣 雄三さん

ニジェールの地で重ねる30余年の現地医療の日々

ニジェールの地で重ねる
30余年の現地医療の日々

取材・文/清丸恵三郎

ニジェールの野口英世と呼ばれる外科医

ニジェールの野口英世と呼ぶ人さえいる。野口は細菌学で数々の業績を残し、ガーナで黄熱病に倒れた医学者。対して谷垣医師は30年余にわたり、西アフリカの最貧国ニジェールで外科医として働き、直近20年余りはサハラの砂塵が舞う地方都市で近代医学の恩恵を受けられない貧しい人々の治療に当たる。資金、医薬品などあらゆるものが不足する中、年間1,000件余の手術をこなし、多くの人を彼岸の淵から救出している。

谷垣さんは大学卒業後、国内で外科医の経験を積み、36歳のときに石油会社の資源探査チームの産業医として彼の地に派遣された。これがニジェールとの運命的出会いとなる。10カ月ほどの勤務中、国民の貧困と医療事情の劣悪さに驚愕、この地に戻り人々の命を救いたいと希求するようになった。当時、この国には外科医は3人しかいなかった。

診察を待つ患者たち

82年、JICA(現・国際協力機構)から派遣されて再びニジェールへ。妻の静子さんも一緒だった。首都ニアメの国立大学病院で治療と教育に従事して10年。患者が地方から何日もかけて大都市にしかない外科施設に辿り着いても手遅れの場合が多い現実を見、この国に必要なのは“はだしの医者”だと考え、医師育成と僻村の人たちに医療の光を届けるため自ら地方に赴く決意をする。

選んだ土地がテッサワ市。92年、8,000万円もの私財を投じ、JICAなどの支援も得てパイロットセンターという外科診療所を開設する。ここで特にこだわったのは患者に負担を求めること。「この国の医療が自立するために必要」と考えたのだ。とはいっても入院費・手術費などは、日本の常識からすればごく安い。そのために工夫に工夫を重ねた。

充実した日々が続いたが、運命の女神は更なる過酷さで谷垣さんに襲い掛かった。99年、支えとなっていた静子夫人が風土病で死去。2年後、JICAとの契約が終了、深刻な資金不足にも直面する。加えてニジェール政府の政策変更で、02年にはセンターを国に寄付、自らは出て行かざるを得ない窮地にも直面する。冬の北アルプスを単独縦走するだけの強靭な精神力と肉体を持つ谷垣さんも、さすがにうち沈まざるを得なかった。

しかしその年の内に新たな診療所を旧センター隣接地に建設、治療活動を再開する。一時体調を崩し、治療のため帰国する事態もあったが、今に至るも不屈の闘志で治療活動を続けている。

谷垣医師を支えた故郷
京丹後市・峰山とのきずな

京丹後市は京都府の北端、日本海沿いに位置する。訪れたのは09年暮れだったが、前日が雪模様だったとかで、旧城下町らしい落ち着いた町並みは白く化粧していた。砂漠の国ニジェールとは隔絶した、水墨画的世界であった。

異国の谷垣医師へ、街ぐるみで物心両面の応援

谷垣さんは名前から分かるように、三男坊。小学校から高校まで一緒で、その縁で地元に残る同級生を糾合して「谷垣医師を支援する会」を立ち上げ、代表を務める島貫修二さんによると「よく野球などをしたが、おとなしく芯の強い子どもだった」という。

谷垣医師と峰山の同級生とが再び結びつくのは、全くの偶然。新宿にある熊谷クリニックに峰山出身者が診察に訪れ、巡り巡って島貫さんの下に連絡が行き、谷垣さんがアフリカで医療活動に携わっているが、JICAの支援が打ち切られて困っていることが分かった。高校卒業から40年余り過ぎた01年のことだ。島貫さんは「放ってはおけない」と、土田雅子や平井英子さんら同級生と相談、支援に動き出す。募金活動、ガーゼ代わりに使う未使用タオルや新聞紙集めなどなど。

以降も谷垣さんはピンチが続く。物心両面で支えたのが峰山の同級生であり、故郷の人たちであった。「年金暮らしのおばあさんが、わずかですがと言って募金を届けてくれた」というようなこともあった。小中高校生も支援の輪に加わった。

島貫さんたちは総合公園の「テッサワの丘」と名づけられた一角に案内してくれた。そこには「テッサワの桜」「友情の桜」など3本の桜が植えられていた。雪に埋もれた桜は、何があっても谷垣医師を支援し続けようという故郷の同級生の堅い誓いを示すように、しっかりと育ちつつある。

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