
82年、JICA(現・国際協力機構)から派遣されて再びニジェールへ。妻の静子さんも一緒だった。首都ニアメの国立大学病院で治療と教育に従事して10年。患者が地方から何日もかけて大都市にしかない外科施設に辿り着いても手遅れの場合が多い現実を見、この国に必要なのは“はだしの医者”だと考え、医師育成と僻村の人たちに医療の光を届けるため自ら地方に赴く決意をする。
選んだ土地がテッサワ市。92年、8,000万円もの私財を投じ、JICAなどの支援も得てパイロットセンターという外科診療所を開設する。ここで特にこだわったのは患者に負担を求めること。「この国の医療が自立するために必要」と考えたのだ。とはいっても入院費・手術費などは、日本の常識からすればごく安い。そのために工夫に工夫を重ねた。
充実した日々が続いたが、運命の女神は更なる過酷さで谷垣さんに襲い掛かった。99年、支えとなっていた静子夫人が風土病で死去。2年後、JICAとの契約が終了、深刻な資金不足にも直面する。加えてニジェール政府の政策変更で、02年にはセンターを国に寄付、自らは出て行かざるを得ない窮地にも直面する。冬の北アルプスを単独縦走するだけの強靭な精神力と肉体を持つ谷垣さんも、さすがにうち沈まざるを得なかった。
しかしその年の内に新たな診療所を旧センター隣接地に建設、治療活動を再開する。一時体調を崩し、治療のため帰国する事態もあったが、今に至るも不屈の闘志で治療活動を続けている。