CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2012年度受賞

ルダシングワ 真美さん

心の傷を癒やし、自立の支えとなるために

心の傷を癒やし、
自立の支えとなるために

虐殺で傷ついた人たちが、肉体的、精神的、経済的に自立できるように

ルダシングワ真美さんが夫のガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさんと、アフリカ中央部の国ルワンダで義肢の無償提供を始めて16年目を迎える。

「経済的なこと、文化や言葉のギャップなど、目の前にはいつも問題がありました。でも、しっかり目標を持っていれば、人は強くなれるし、少しずつでもそこに近づくことができるのだと思います。そして何よりも支援してくださる皆さんの力があって15年間続けてこられました」と振り返る。

1989年、語学留学先のケニアで、自国の紛争を逃れて来ていたルワンダ人のガテラさんと知り合った真美さんは、ガテラさんが来日した際に義肢装具士の存在を知る。「この技術は紛争で多くの人々が傷ついたルワンダで必ず役に立つ」。5年間の修業を経て真美さんは海を渡った。

紛争や大虐殺が終結したルワンダでは、政府も人々も国を建て直そうと必死に努力している。真美さんたちは、そうした新しい国づくりの歴史に自分たちも参加しているという実感を力に、ルワンダで義肢提供の活動を続けている。

OL生活に疲れアフリカへ。ガテラさんとの出会いが人生の転機に

20代半ばを迎えた真美さんは、変化のないOL生活に疲れを感じていた。「どこかに逃げ出したい」。その思いが決定的になったのは、帰宅する電車の窓に映った自分の顔だった。「眉間に皺を寄せて、とても嫌な顔をしていました」。

そんな時、ふと手にした本に載っていたのがケニアにあるスワヒリ語学校の生徒募集だった。応募した真美さんのもとにやがて合格通知が届く。まだ見ぬアフリカ、ケニアへ語学留学の道が開けた。1989年、26歳の時である。

首都ナイロビで勉強を始めた真美さんは、ある日友人を訪ねた集合住宅で、ルワンダ人の男性ガテラさんと出会う。ガテラさんは、誤った植民地政策で民族間が対立する祖国の様子やアフリカの闇の部分について真美さんに話し、平和が戻れば国の役に立ちたいと熱く語った。

滞在期限が来て帰国した真美さんは、何度か手紙のやり取りをした後、ガテラさんに惹かれる自分に気づき、「自分の気持ちを確かめたい」と再びケニアへ。ガテラさんと再会し、これからの人生を一緒に歩く人だと確信した。

真美さんはガテラさんについて、「出会った当初から、話をするほどもっといろいろな話を聞きたいと思わせる人だった」と話す

義肢装具士となり、ルワンダ政府の承認を得て義肢の提供を開始

ガテラさんは足に障害があり歩行をサポートする装具を着けていたが、1991年の来日時に壊れてしまい、真美さんと横浜にある平井義肢製作所を訪ねた。そこで目にしたのが日本の高い義肢製作技術。

「これはルワンダで必ず役に立つ」。そう直感した真美さんは弟子入りを志願。ルワンダでの活動をイメージし、「本当に何もないところから部品を作っていくような技術を教えてください」と頼み込んだ。親方である職人気質の社長はその思いを受け止め、それから厳しい修業が始まった。

94年、ルワンダで犠牲者100万人といわれる大虐殺が勃発。終結後ガテラさんはすぐさま帰国し、障害者支援のNGO設立と活動する土地の獲得に向け、エレベーターのない建物の5階にある政府事務所に不自由な足で通い続けた。やがて5年の修業を終えて真美さんもルワンダに入り、96年、NGO「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト※」を設立。

97年には約1ヘクタール半の土地をルワンダ政府から譲り受け、まず仮の義肢製作所で、ガテラさん、真美さん、現地の義肢装具士2名で活動を開始した。

真美さんが5年間修業した横浜の平井義肢製作所。この製作所を含め、現在まで6名のルワンダ人が日本で研修を受けている
(左)ワンラブ・プロジェクトはニャミランボの仮の製作所からスタート※http://www.onelove-project.info/
(右)最初の患者は、トラック運転中に地雷を踏んで両足をなくした男性だった
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