Genealogy シチズンの系譜

シチズンの原点

創業に大きな役割を果たした先人たち

1918年、時計の国産化を目標に掲げ発足した尚工舎時計研究所。当初はスイスからの輸入部品の組立てを行っていました。やがて欧米製工作機械を輸入し、部品用工作機械は自社で製造、さらに優れた技術者育成のために時計学校も開設するなど、精密な製品づくりに苦戦しながらも、1924年に悲願の懐中時計製作に成功しました。シチズン初の製品は、山﨑と親交のあった、時の東京市長・後藤新平伯爵によって「永く広く市民に愛されるように」と「CITIZEN」と名付けられました。そして、「国産時計をつくる」という熱い想いを共有した中島與三郎、鈴木良一と共に、1930年、シチズン時計株式会社を創立しました。

シチズン時計株式会社
初代会長山﨑 龜吉
山﨑商店(時計貴金属商)の店主で、明治30年代には東京時計商工業組合の筆頭幹事だった。後に貴族院議員となるが、その時に海外で見聞した時計産業の発展に着目、時計国産化を決意し、尚工舎時計研究所を創立、その後シチズン時計を創立する。
シチズン時計株式会社
初代社長中島 與三郎
大学卒業後カナダへ渡り英語力を磨く。帰国後はスイスの時計商シュミット商会の日本側代表となり、スイスから輸入した部品で時計の組立業務を開始し、見事に成功させた。時計国産化へ熱意を持ち、尚工舎を買収し、シチズン時計創立に参加。
シチズン時計株式会社
工場管理人鈴木 良一
シュミット商会に入社し、中島の信頼を得る。山﨑が尚工舎を手放そうとしたとき、中島に出資を要請。中島がシュミット商会の代表者を兼任していたため、新会社・シチズン時計の工場管理人として経営の責任を負うこととなった。

時計作りを原点に。
広く市民に貢献するシチズングループへ

シチズンは、時計づくりの小型精密技術を生かし、新たな分野への挑戦を続けてきました。工作機械、デバイス、電子機器など、あくなき挑戦から生まれた事業は会社へと発展し、次々とグループ企業を誕生させてきました。時代の移り変わりとともに社会の要請に応えながら、現在のシチズングループへ至ります。

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