CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2005年度受賞

吉野健治郎・勝 親子

きめ細かなサービスで、安売り店も撤退

なぜヨシノ眼鏡店が、これほど長く地域社会への奉仕活動が可能だったのだろうか。

もちろん恒一さんが「佐野の町や人たちにお世話になった。恩返しをしたい」と、心から思い、その感謝の気持ちを健治郎さん、勝さんと受け継いできたことが第一である。

もう1つあげるとすれば、そうした奉仕活動が可能な経済的なバックグラウンドがあったということである。

ヨシノ眼鏡店は昭和の初め岸和田で創業、27(昭和2)年に佐野へ移ってきた。元々レンズ職人だった恒一さんは技術に厳しく、工業学校を出て店を手伝っていた健治郎さんも徹底的に仕込まれた。50年代半ばになると、経営は順調に伸び始めた。が、やがて強烈な台風が襲ってきた。市内に大型スーパーが開店、同時に別のメガネ店が出店するというのだ。

「徹底したアフターサービスをすることで、スーパーに入っているライバル店を追い出してしまおうと。ディスカウントはせず、買っていただいたお客さんには手紙を出し、その後具合はどうですかと。また年寄りのお客さんは送り迎えもした」

スーパー内のメガネ店は撤退、あとにはヨシノ眼鏡店が入ることになった。多店舗化のこれが始まりだという。

成長期、敦子夫人によれば、当然のことながら健治郎さんは「仕事一筋でした」という。現在、ヨシノ眼鏡店は泉佐野市を中心に7店舗にまで増えている。

日本でも20人足らずのスペシャリスト

しかし時代は再び変転、いまやメガネ流通は大乱戦時代。ディスカウント系のチェーン店が乱立するようになった。「うちは今も、ディスカウントはしません。徹底したアフターサービスと、もう1つはどこにも負けない技術力で勝負しています」

例えば「外径指定」という技術がある。牛乳瓶の底のような厚いレンズのメガネをかけている子どもをときどき見かける。極度の遠視の子どもなのだが、外径指定を用いて作ると実はごく薄いものにできるのだという。「眼科医でも知らない人がいるくらいだから、多くの店が外径指定の計算方法、作り方が分からない。しかしうちでは社員全員この計算ができる。そのために、兵庫県や和歌山県からもメガネを作りに来られますし、一方われわれが作りに出かけてもいます」

ヨシノ眼鏡店の最新の技術を支えているのは、56年生まれの社長の勝さん。大学で光工学を学び、眼鏡と顔形とを合わすフィッティング技術では、日本でも20人足らずという専門家だ。年間、全国10数ヵ所を講演で回るほか、専門学校で教えてもいる。

アフターケアと技術、これがヨシノ眼鏡店の経営を支えており、ボランティア活動の基盤ともなっているといえよう。

ありがとうの笑顔がある限り、これからもずっと

恒一さん、健治郎さんに続く3代目の勝さんが、このところ力を入れているのが、東南アジアのタイでのボランティア活動。

「すでにタイへ行くようになって10年になる。メガネ店経営の勉強会で『古い眼鏡どうしてる』という話が出た。そこで『海外の国の人に寄贈できないか』ということになり、そのうちの1人の段取りでタイへ行くことになったんです」

毎回、全国から20人前後が参加する。2泊3日で、1回で2ヵ所まわる。だいたいミャンマー近くを含め田舎が多い。バンコクの場合はスラム街。泊まるのも、メガネを配布するのもお寺である。タイ仏教会が仲立ちしているのだという。

「フレームは洗浄・パーツ交換した再利用のものだが、レンズは新品。でも皆さん、とても喜んでくれる。現地では信者の方が、食事を作ってくれます」

今後の泉佐野とタイでの活動だが、勝さんは次のように語る。「泉佐野のボランティアは会社が続いている限りやっていきたい。タイももちろん続けて協力していく。しかしうちにとっての本命は泉佐野。いま日本でも貧困率という言葉が使われたり、現実に親が貧しくて子どもが学校に行けないなどという問題が起きたりしている。そういう点でも、一定の役割、意味があるのじゃないかと考えている。会場で、生まれて初めてメガネがかけられたというおばさんがいた。とてもうれしそうだった。そういう人がいる限り、頑張らないといけないですよね」

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