なぜヨシノ眼鏡店が、これほど長く地域社会への奉仕活動が可能だったのだろうか。
もちろん恒一さんが「佐野の町や人たちにお世話になった。恩返しをしたい」と、心から思い、その感謝の気持ちを健治郎さん、勝さんと受け継いできたことが第一である。
もう1つあげるとすれば、そうした奉仕活動が可能な経済的なバックグラウンドがあったということである。
ヨシノ眼鏡店は昭和の初め岸和田で創業、27(昭和2)年に佐野へ移ってきた。元々レンズ職人だった恒一さんは技術に厳しく、工業学校を出て店を手伝っていた健治郎さんも徹底的に仕込まれた。50年代半ばになると、経営は順調に伸び始めた。が、やがて強烈な台風が襲ってきた。市内に大型スーパーが開店、同時に別のメガネ店が出店するというのだ。
「徹底したアフターサービスをすることで、スーパーに入っているライバル店を追い出してしまおうと。ディスカウントはせず、買っていただいたお客さんには手紙を出し、その後具合はどうですかと。また年寄りのお客さんは送り迎えもした」
スーパー内のメガネ店は撤退、あとにはヨシノ眼鏡店が入ることになった。多店舗化のこれが始まりだという。
成長期、敦子夫人によれば、当然のことながら健治郎さんは「仕事一筋でした」という。現在、ヨシノ眼鏡店は泉佐野市を中心に7店舗にまで増えている。