CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2021年度受賞

飯田 和幸さん

夢中で描いた絵が入選を重ねた

飯田さんと再会した恩師は、その窮状を聞き、「お前が好きだった絵をまた描いてみたらどうだ。少しは気持ちが楽になるぞ」と話し、再び絵と向き合うことをすすめた。

その後も苦しい生活は続いたが、恩師の言葉が何度も思い出された飯田さんは、ある日思い立って映画看板のベニヤ板をはがし、看板用の絵の具で絵を描いてみた。思うようには描けなかったが、「それでも絵を描いていると気持ちが楽になり、先生の言う通りだと思いました」どうせ描くなら自分の描きたい絵を描こうと、考えた末に「女性を描こう」と心に決めた。

ところが、見たままに描くという映画看板の技法が染みついていた飯田さんには、自由なイメージが膨らまない。そこで、看板の絵の具ではなく、油絵の絵の具なら想像力も膨らむのではないかと、なけなしのお金で赤、白、黒の3色だけ買い、筆が買えないので指や歯ブラシやタワシを使い夢中になって絵を描き始めた。それからは、独学で油絵を勉強しながら、時間を見つけてはキャンバスに向かった。そして1年後、恩師のすすめで帯広市の賞に応募すると見事に入賞。次の年には札幌、翌年には東京と連続入選したのである。

再度夢に向かい、必死で描いた作品が入賞

画家としての幅を広げ美術教師の夢も実現

自分の絵が人に認められるという経験は、飯田さんの生きる糧となり、人生が大きく開ける力となった。その後も独自のパステル画の技法を編み出すなど、画家としての幅を広げていった飯田さんは、地元の高校から絵画を教えてほしいという依頼を受け、美術の先生になるという中学時代の夢を叶えることもできた。ちなみに、最初の授業では黒板一杯にチョークで自分の似顔絵を描いて自己紹介したという。飯田さんの人柄が伝わるエピソードで、それから10年以上この高校で教壇に立つことになった。

振り返れば、常に一生懸命目の前のものに取り組み、周囲の人々にも助けられながら人生を歩んできた飯田さん。だからこそ、40代から向き合うようになった少年院の生徒たちにも、決して諦めない人生を伝えたかったのである。その思いは少年たちだけでなく、院内の人たちにも伝わり、最後の院長を務めた曽和浩さんは、「飯田さんの経験と人柄を通じた授業は、少年たちにとって非常に学びが多かった」と語る。

帯広少年院自体、情操教育として「心」や「人間力」を育むことに力を入れ、地域のボランティアによる授業や、軽度の知的障害や発達に遅れのある少年の受け入れにも積極的に取り組んできた。

愛用する画材や、看板絵師時代の作品たち

これからは自分の絵と向き合っていきたい

少年たちと自分に重なるところを感じ30年以上活動を続けた

30年以上にわたる帯広少年院での絵の授業を終えてしばらく経ったある日、飯田さんのもとに少年院経由で1通の手紙が届いた。あの最後の日、「どうすればイラストレーターになれるでしょうか」と尋ねた教え子からの手紙だった。そこには、「少年院を出たら、イラストレーターになりたいという夢ができました。いつの日か先生に僕の絵を見てほしい。待っていてください」と綴られ、イラストレーターとして活動するときのペンネームも添えられていたという。

「諦めずにコツコツ続ければ、いつかきっと道は開けるよ」。自分の想いがその少年にしっかり伝わっていたことが、涙が出るくらいうれしかったと話す飯田さん。今からその絵を見る日が楽しみでならない。

一つの仕事に区切りをつけた今、飯田さんは人生の節目で手を差し伸べてくれた多くの人たちや、60年以上も支えてくれた奥さまに恩返しができるよう、自分の絵とさらに向き合っていきたいと決意を新たにしている。

少年からの手紙を今でも大切に保管している
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