CITIZEN OF THE YEAR 社会に感動を与える人々を応援します。

受賞者一覧

2014年度シチズン特別賞受賞

高山 良二さん

「共に暮らし、平和の種を育てたい」

「共に暮らし、共に喜び
平和の種を育てたい」

PKO活動参加後、「やり残したことがある」との思いで再訪を誓う

自衛官だった高山良二さんは、1992年5月、所属する施設団がカンボジアに派遣された場合の人員編成案を一晩で作るよう、極秘の指令を受けた。すべてはこれが始まりだった。

施設団は道路や橋を造ったり、地雷処理などを遂行する部隊。やがて正式に派遣が決定し、短期間で活動計画を練り上げるという激務を経て、10月、高山さんは施設大隊長補佐として83名を率いカンボジアへと飛び立った。

初のPKO参加とあって、カンボジア到着後は試行錯誤の連続。英語があまり得意でなかった高山さんも、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)司令部との業務調整に奔走した。厳しい任務ではあったが、日々大きなやりがいを感じ、現地の子どもたちとの触れ合いにも心が和んだという。

半年後、無事任務を完了し、一人の欠員も出すことなく日本へ帰る日がやってきた。このとき高山さんは、安堵感の一方で、「現地の人たちのために、もっとできることがあったのではないか」という思いにかられ、「必ず戻ってこよう」と、飛行機の窓からカンボジアの大地に誓ったのである。

PKOの先遣隊としてポチェントン空港(現プノンペン国際空港)に降り立った高山さん

時が経つほどに募っていった、カンボジアへの熱い思い

「必ず帰ってくる」と、機上から別れを告げたカンボジアの大地

日本に帰れば、カンボジアへの思いも次第に薄れると思っていた高山さん。「ところが、再訪したいという思いは、冷めるどころか逆に強くなっていきました」という。

高山さんは来るべきその日に備え、英語塾やパソコン教室に通い、さらに、仏教国であるカンボジアへの理解を深めるため奈良の東大寺に行き、僧侶の資格まで取得した。

帰国から10年が過ぎ定年退官が近づいていた高山さんは、自衛官OBがカンボジアで地雷・不発弾処理のNGOを立ち上げようとしていることを知った。カンボジア国内には、20年以上続いた内戦などによって、400万個とも600万個ともいわれる地雷や、空爆による不発弾が数多く残され、住民が被災したり犠牲になったりしていた。

NGOへの参加を申し出ると、すぐに現地副代表として赴任してほしいという返事が来た。「カンボジアへの思いがピークに達していました」という高山さんは、2002年5月、定年退官からわずか3日後に、「必ず帰ってくる」と誓ったカンボジアの地へ向かったのである。

発見された地雷と不発弾

国をも動かした地雷処理への情熱と信念

高山さんが参加したNGO「JMAS(日本地雷処理を支援する会)」は、自衛官OBの技術を活用した地雷や不発弾の処理を目的としていた。しかし、赴任後の当面の活動は、不発弾処理と不発弾や地雷による事故を防ぐための啓蒙活動が中心だった。

2005年12月、一刻も早く地雷処理に着手したかった高山さんに転機が訪れる。日本の外務副大臣に直接面会し、カンボジアにおける地雷処理活動の必要性を訴える機会を得たのだ。しっかり頷く副大臣の様子に高山さんは確かな手ごたえを感じた。

年が明けると、外務省でNGO支援の予算が検討されて現地調査が行われ、念願の地雷処理活動が現実へと近づいた。そして2006年6月、高山さんは内戦時代の激戦地、タイ国境のカムリエン郡タサエン村で「住民参加型地雷処理活動」を開始したのである。

この活動は、住民を雇用して地雷処理技術を教え、デマイナー(地雷探知員)となった住民は自らの手で村の地雷を除去し、爆発による被災者を無くすというもの。これは同時に、安全な土地を取り戻して地域の復興支援につなげるものであった。

地雷原で発見された旧ソ連製PMN対人地雷
高山さんの指導を受けながら地雷処理を行う住民のデマイナー
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